良かった耕平生きてた

今日は耕平の誕生日だったから、久しぶりにBRaGのML流してお祝いメール。

返信こないかと思いましたが、こんな感じで返ってきた↓↓



…………………………………………………………
久しぶり!!
心が元気じゃないです(笑)松山は代理店の人間性が終わってます(-_-)

勤務状況も劣悪で笑いがでそうです(゜ロ゜)

のりさんがコンクリート詰めにされた人の話をして「この人よりマシだ」と心の支えにしていたんですが、今ではその気持ちがよく分かります(爆)


まぁ、なんだかんだありますが生きてます!!

また連絡下さい!色々話しましょう(^-^)/



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まぁ仕事は大変そうやけど相変わらずな感じで、安心です。

とりあえず耕平生きてて良かったです。

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ゆず論

ある人が、日記に『ゆず論』というのを書いていて、すごく共感できたのと同時に
『すき』ていう気持ちをここまで詳細にアウトプットすることのできる
この人の文章力に感動したので
ゆずが好きな人にも、そうでない人にも是非一読して見て欲しい内容。


↓↓↓↓↓↓↓
  

そしてまたここへ 帰ってきたわけさ
風の音を聞きなが いつの間にウトウトして 日だまりのあの公園へ
(ゆず『日だまりにて』詞・曲:岩沢厚治)


 僕がゆず大好きと言うと意外に思う人もいるかもしれないが大好きなのである。というか岩沢厚治という、髪が黒くて背が小さくて声が高いほうが好きなのである。曲も声も好きだが、取り立てて詞が好きだ。彼の詞は、詞というよりも詩という感じがする。ゆずのもう一人、北川悠仁とは対極にあると僕は思う。悠仁はその卓越したポップセンスによりメロディにうまく乗ったそれでいてわかりやすい詞を書くが、岩沢先生の詞は詩情にあふれ、あふれすぎて、ともすれば意味不明ですらある。悠仁の詞は論理的に整合性のある、散文的にキチッとしたものが多いが、岩沢先生の詞は繋がりが悪かったり、明らかに説明不足でわけのわからないものが多い。
 悠仁の詞というのは例えばこういうようなものである。

  アゲイン 誰もがみんな一人ぼっちを
  抱きしめながら生きている
  アゲイン 泥だらけの靴だって何度でも
  歩き出せるさ
  君が君であるために
  わずかな光を頼りに
  僕とともにいこう アゲイン
  (『アゲイン2』)

 これはこれで名曲で、僕も大好きだし、二人の歌い分けすら完璧にできるのだが、これぞ悠仁お得意の「売れ筋のポップソング」の典型的なものである。
『アゲイン2』のカップリングで岩沢先生が作詞・作曲をした曲は、こんなふうである。

  散り散りにバラバラになってた 欠片探してるだけ
  呆れるくらい君を思うほど まるで空が落ちてきそうなんだ
  憂鬱な時間が過ぎてく
  言葉は時に残酷で 目の前を通り過ぎてゆく
  (『手暗がりの下』)

 別になんてことない歌詞だが、『アゲイン2』と比べると、より抽象的であることはわかるだろう。それは「A面曲とB面曲の違いだ」と言われればそうなのかもしれないが、ゆずのシングルで単独A面(両A面、3A面シングルの場合は、最初に記載された曲)になった岩沢先生の曲というのは、全30枚(『桜会』を含む)のうち『からっぽ』『飛べない鳥』『3カウント』『呼吸』『3番線』『歩行者優先』『超特急』『春風』の8曲のみである。うち『呼吸』と『3番線』は4週連続シングルという企画の一つなので、あんまり重みはない。一応書いておくと、『シシカバブー』という完全共作の曲もある(『スミレ』は作詞のみ共作)。
 30枚中、A面(1曲目)になっているのが8枚である。作った曲の絶対数は、初期を除けば(初期はほとんどが岩沢曲だった)悠仁のほうが多いのだが、それでもこの比率は注目すべきである。岩沢先生の曲はそもそもA面にならない。簡単に言えば、岩沢先生の曲はシングル向きではない、つまり、一般受けしないのである。
 さらに言うと、岩沢先生の曲はなんだか暗い。聴いてるこっちが心配になるくらい暗い。別に絶望的なことが書いてあるわけでもないのに、言葉の節々から本気の暗さが垣間見えるのである。

  今さら遅いとか早いとか 言わない方がいいんだけど
  あえてあからさまに 曖昧にどっちでもいいと言ってくれ
  雨が強くてよく晴れてたっぽい 月曜日の週末は
  あからさますぎて大事な事がわからない
  そんな事はよくある話だと 君は笑うかも知れないけど
  いつも僕は考えこむのさ ずっと
  (『月曜日の週末』)

 この曲の異様な暗さがわかるだろうか。「月曜日の週末」とは何を意味するのか。『カーテンのせい』という曲の歌詞を見ればわかるのだが、これは完全に引きこもりのメンタリティなのである。「前を見たり空を見上げたりして歩き出す」ような曲も書いているが、岩沢曲の本質はこの暗さ、引きこもり的メンタリティにあるのである。
 シングル『歩行者優先』と両A面となった『濃』にはこんな歌詞がある。「晴れた日はプラプラとホカ弁を買って
あそこの丘の上に座り込んでかみしめてる」こういう感じを、ほかのどのポップシンガーが歌えるだろうか。
 上に「前を見たり空を見上げたりして歩き出す」と書いたが、「歩き出す」というのはゆずにとって非常に重要なモチーフであって、悠仁曲にも岩沢曲にもよく出てくる。しかし両者の「歩き出す」は微妙に違う。悠仁の「歩き出す」には希望がある(上記『アゲイン2』参照)が、岩沢先生の「歩き出す」は、「しょうがねえから、とりあえず歩き出すか」なのである。なんてったって『濃』のサビは「とりあえず歩きだそう
答えなんて初めからから フラリフラリと
答えは風に吹かれてる」なのである。答えなんてわかんねえけど、とりあえず歩くしかねえだろ、という気の抜けた、諦めに満ちた感じが岩沢先生の本質なのである。
 岩沢先生の、もしかしたら最も有名な曲『からっぽ』でも、「答えは今も見つからないまま
繰り返しの渦の中また一歩踏み出すよ」と言っている。「わかんねえし、どうせまた同じこと繰り返すんだけど、とりあえず踏み出してみるか」である。ほとんど同じことを歌っていても、悠仁だとこれが「何度でも歩き出せるさ」になる。同じようで、違う。と僕は思う。
 もう一つの代表曲『飛べない鳥』にも「歩き出す」は出てくるのだが、二番のサビには「確かな答えなんてさ 見つからないまま
飛べない鳥の様に」という歌詞がある。岩沢先生の詞世界の基調をなしているのは、この「答えはない、わからない」なのである。
『アゲイン2』にも「答えなんかなくても
確かな一歩踏み出した」という詞があって、これまた同じようなこと言っているのだが、やっぱり違う気がする。何が違うかといえば、「なくても」「確かな」という確信が悠仁にはあるのだ。『心のままに』には、「本当の答えを見つけるために確かに歩き出す」とある。「本当の」「確かに」に見られるように、彼には「確信」があるのだ。そこが悠仁の前向きさを形作っているのだが、岩沢先生の曲にはそれがない。もっとフワフワ、「フラリフラリと」しているのである。
 もう少し踏み込むと、悠仁は歌詞の中で「君」に対して信頼を置いているが、岩沢先生は「君」なんてもんをたぶん信じていない。これまた『アゲイン2』で恐縮だが、悠仁は「君となら笑い飛ばせるさ」と言い切ることのできる人であるけれども、岩沢先生は「君と歩きそして笑うために
全てを知ってゆく事 恐くなんてないさ」(『飛べない鳥』)と歯切れが悪い。ここにあるのは「信じている」ではなくて「信じたい」であって、僕の大好きな「真実への切なる祈り」である。
 先に述べた「暗さ」というのは、「祈り」と表裏一体のものである。暗さを抱えているからこそ、「祈り」が必要となるのである。確信なんかどこにもないし、信じられるものなんかないようにさえ思えるのだが、「信じたい」という祈りだけがそこにある。
 岩沢曲の特徴としてもう一つ挙げられるのは、冷静さ、客観性である。先に引用した『濃』の「あそこの丘の上に座り込んで噛みしめてる」や、最初に載せた『日だまりにて』の「あの公園へ」に注目してほしい。どうして「わざわざ話題にするくらい重要と思われる場所」に「自分」を存在させないのだろうか。これは作曲の都合、すなわち音数や発声上の問題でもあろうが、このように「丘」や「公園」との距離感を出すことによって、得も言われぬ客観性がにじみ出ているのだ。ここには「丘の上で弁当食ってるような自分」や、「かつてその公園にいた自分」を冷静に見つめるもう一人の自分がいるのである。ちなみに『踏切』なんてのは、客観性の極地のような曲である。自分が「ここにいる(いた)」ということをひたすら客観的に描写しただけの曲。恐ろしい。
 岩沢先生は、諦めの中の祈り、絶望の中の希望という僕の大好きなモチーフを、決して独りよがりにならない冷静な客観性で、それでいて豊かな詩情で描いている。こういうポップシンガーは希有だと思うのだが、彼がポップシンガーでいられるのは北川悠仁という「ポップの天才」とデュオを組んでいるからであり、もしも岩沢先生がソロシンガーだったらきっとこんなに売れなかっただろう。ゆずファンで岩沢びいきの人はそもそも少ない(自分調べ)が、積極的に「岩ちゃんが好き」という人にはヘンな人が多い。自分もその一人である。岩沢先生の一般性のなさというのは、おそらく「本質的な暗さ」「客観性」「詩情」というところに原因するのであって、考えるにつけ自分の趣味の一般性のなさというものを痛感するのであった。みんな「明るさ」や「主観性」や「わかりやすさ」が好きなのである。それらを兼ね備えた北川悠仁という人間は、スーパースターである。すごいなあ。


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